『仮面ライダーエグゼイド』30話「最強VS最強!」感想+考察
▼『ゴースト』は命の扱いが"軽い"のか?
タケル「良く聞いて。貴方が閃きだと思っているのは眼魔って言うゴーストの仕業なんです。貴方は利用されてるんです!」
園田 「訳の解らん事を!わしは、1%の閃きの為なら、命だって惜しくないんだ!」
タケル「命が惜しくない?命は…、命はそんなに軽くない!」
上記の掛け合いは『ゴースト』2話「電撃!発明王!」より。2話のゲスト、園田を利用していた眼魔から彼を護る為にタケルは説得を試みるも、園田は命を懸けてでも転送装置を完成させようとする。しかし、1話で既に命を落としているタケルはその発言に怒りを見せる。「命はそんなに軽くない」と。
『ゴースト』では割と多くの人間が亡くなっている。本編ではフミ婆やアドニス、龍さん、一般人ならカプセルの中の人々、夏映画では深海大悟、『スペクター』ではジャイロと西園寺、眼魔世界の民達がその命を絶っている。その者達は決して蘇らない。
『ゴースト』はよく、「"生き返り"が多いから命の扱いが軽い!」と批判されるが、実際、劇中で生き返った人間ってカノンとタケルくらいしかいないんですよ。二人はどちらもグレートアイの力で復活するのだが、それを起動させる為には15個の英雄の眼魂が必要な為、決して簡単な所業ではない。でもって、カノンの場合はタケルが彼女の命を優先したことにより、序盤での復活を果たしたが、次にグレートアイを起動させようとした25話ではタケルはグレイトフル魂の力を手にしてしまった事で、ガンマイザーが本格的に活動を開始してしまい、眼魂が集まっても、グレートアイへの介入を邪魔され、願いの成就を拒まれてしまう。だからタケルが完全に復活したのは全てが終わった後である本編最終回(49話)なのである。命とは、簡単に蘇ってはならないものなのだ。
今回の『エグゼイド』では檀黎斗/仮面ライダーゲンムがまさかの返り咲き。「死んだ人間は生き返らない」のが『エグゼイド』の胆だったので、『てれびくん』を読んでこの情報を知った時はちょっと萎えてたのだけれど、社長は人間としてではなく、バグスターとして復活したのか。これでは話が変わってくる。
故人の復活の可能性が示唆された事で、次回の飛彩はゲーム病で亡くなった彼女の転生を思う。しかし、それが"人間"として復活するのと"バグスター"として復活するのでは全然意味が違ってくる。また飛彩の葛藤が描かれるのか。爆走バイクガシャット(ガシャットロフィー?)を持ってると言う事は貴利矢についても少しは触れられるのかな?
ゲンム レベル0は倒されてもコンティニューが利くらしく(まさにゾンビ!)、それ故に黎斗は命を軽視する事からエグゼイド/永夢と一悶着するのかな。「ノーコンティニューでクリアしてやるぜ!」と言うエグゼイドの決め台詞は、一つしかない命をはって戦うエグゼイド(とドクターライダー達)の謂わば覚悟の言葉なのだけれど、ゲンムの場合は死を顧みずに戦う事が出来る。そこに永夢は憤怒する、と言う流れかね。「バグスターは何度倒されても蘇る」と言う設定だったけど、そうか、黎斗はそのバグスターと同じ思考を持つ事となったのか。黎斗と永夢が真に認め合い、共に戦う時は来るのだろうか…?そして…、
リプログラミングの効果により、パラドは人間の遺伝子が組み込まれたと同時に"命"と言う概念も手に入れたのか。パラドに"命"が備わった事で、永夢がパラドをどう扱うのか、ここも見所の一つ、かもね。
ではこれにて。
『仮面ライダーアマゾンズ season2』Episode5「RAMBLING ROSES」感想+考察
▼長回しは良いぞ
(『ドライブ』)本編とは違う部分を引き出すために、長回しという手法をたくさん使っています。長回しをすると、役者に負担がかかるんですよ。言ってみれば、役者の力次第。役者たちも、頑張らざるを得なくなるので。やはり役者の魅力を見せてなんぼのVシネマですからね。
石田秀範監督の撮る作品の特徴の一つに"長尺"が挙げられる。上の引用は『仮面ライダーマッハ/仮面ライダーハート オフィシャルムック~AGAIN & END~』の巨匠のインタビューからだが、氏曰く、「役者の本気を撮る為に(役者に負担をかける為に)敢えて尺を長くする」らしく、その考えは『アマゾンズ』にも色濃く出ている。
『アマゾンズ season1』
Episode1「AMAZONS」 再生時間 46分26秒
Episode2「BEAST INSIDE」 再生時間 40分23秒
Last Episode「M」 再生時間 39分21秒
『アマゾンズ season2』
Episode1『NEO』再生時間 39分28秒
Episode2『ORPHANS』再生時間 33分50秒
しかし、お気付きだろうか?長回しを一種の技として使っている巨匠だがどんどん進んでいくにつれて、再生時間が短くなっていってるのだ。今回の『season2』は『season1』では登板されていた金田監督が参加していない為、ローテーションで5、6話は巨匠が担当。『season2』は『season1』より話のテンポが良いね(脚本の関係もあれど)何と言うか、『season1』よりもサクサク観れる。これについてどう思うかは人其々だが(長尺の方がストーリーをより深く味わえて良い!or 短尺の方がかったるさが無くて観易くて良い!)巨匠の最近の尺を抑える撮り方は後者の意見を踏まえたやり方なのかも知れないね。
▼守りたいものは護る
仮面ライダーアマゾンオメガ/水澤遥はよく、「ブレブレ」と言う評価をされる。遥は「守りたいものは護る」と言うスタンスで対象を生かすか殺すかを決めるのだが、遥のその「守りたいもの」と言うのは人間もいればアマゾンもいる。仮面ライダーアマゾンアルファ/鷹山仁が「人間を護る」と言うスタンスを曲げずに持っていたが故に、遥のスタンスにブレがあるように見えてしまう、と言った感じなのかな。遥は良くも悪くも「自分の好きな人を護る」と言う考えで、だから新型アマゾンは狩るが、それの根源たるマモルは仲間だから護る、と言った結論に至る。矛盾しているように見えて、実はそうでない(と思い込んでるだけ?)要するに仁さんが「人間を護る」とそれを曲げないように、遥は「好きな奴を護る」と言う考え方を曲げない奴なのです。
…そろそろ良いタイミングかな。『season2』2話感想で予告したある記事は今週中に投稿出来ればと思っておりますので楽しみに待っていて下さい。ヒントは「共存」です。
ではこれにて。
『仮面ライダーエグゼイド』29話「We're 俺!?」感想+考察
▼ここで一先ず
永夢やパラド関連の設定について今週明かされた謎も含め、今一度整理(お浚い)してみよう。
16年前・・・永夢、交通事故に遭う。その後、日向恭太郎の手により一命を取り留める。この出来事から永夢はドクターを志す。
更にこの時、日向恭太郎からゲーム機を貰った事から、ゲームにも興味を持ち始める。そして、友達がいなかった永夢は一人でゲームのアイデアを考える事が日課となる。(永夢は「一緒にゲームで遊ぶ友達が欲しい」と願っていた)
ある日、永夢は幻夢コーポレーション(檀黎斗)宛に自分のゲームアイデアを書いた手紙を送る。黎斗はその才能に嫉妬し、永夢にバグスターウイルスを組み込んだゲームソフトを送る。永夢はそれをプレイ。世界初のゲーム病感染者となる。(この時、永夢は仮面ライダー(ゲーマドライバー)の適合者となる)
その後も永夢の中のバグスターウイルスは成長を続け、次第に永夢(僕)の人格がパラド(ゲーマーM(俺))の人格へと移り変わっていく。
6年前・・・永夢、格闘ゲーム大会でニコを圧倒し、優勝。その頃、黎斗は永夢のバグスターウイルスの成長を確認。財前美智彦に永夢の手術(ウイルスの採取)を依頼。(永夢はこの手術を「夢」と認識していた)ここで永夢とパラド(バグスターウイルス)が分離。そのウイルスに感染した財前美智彦含む、ドクター達が感染し、消滅。その後、永夢は再度ドクターを目指す。
18話・・・黎斗に自身がゲーム病である事を暴露され、永夢は莫大なストレスを感じ、病気が悪化。本来なら死に至る筈だったが、分離しても尚、繋がっているパラドが永夢に乗り移った事により、永夢は生き長らえるも、その後の永夢はゲーマーM(パラド)単一の人格となってしまう。飛彩の助けで永夢が元の人格に戻るまで、パラドの姿が映らなかったのはその為。
今週は所謂、説明回。こうなると、「ゲーマーMの人格って何なの?パラドとゲーマーMは同時に存在していたよね?」と言う疑問が浮かぶ人もいるかも知れないが、恐らくこれこそが、「永夢のゲーム病が治っていない」と言う何よりの証拠なのだろう。永夢とパラドは分離されたとは言え、永夢の身体にはまだバグスターウイルス(パラドのウイルス)が蔓延っている。だから、ゲームをする時"だけ"一時的にそれが表に出て来たりするし、時折、ドクター人格とゲーマー人格が混合したりする、みたいな感じなのかもね。
▼最近、
山口監督のキメワザテロップの見せ方が特殊になってきたよね。良きかな良きかな…!でもそう言えば思い返すと…、
今まではキメワザの帯は斜めに入れるのが普通だったんだけど、
最近、それを縦めに入れる演出がちょこちょこ見られる。
実は、これを最初にやったのは17話(バガモン回)で、撮ったのは山口監督。山口さんもこうやって色々な見せ方をしてくれるならキメワザテロップ大好きの自分は大喜びですよ…!で、今回の変わったテロップの出し方は…、
「なんじゃこりゃあ!?」と声を出してしまいそうだった。また面白い画を魅せてくれたね。非常に楽しいですたい!これからも様々な魅せ方で僕らを楽しませてください山口さん。…でも折角久し振りにブレイブ ファンタジーゲーマーが出てきたんだから「タドルクリティカルスラッシュ」のテロップは見たかった…!まだ本編で一回しか使われてないじゃんアレ…!ライダーを魅せる為に他のライダーのテロップを削る手法は山口監督特有の一種の"技"になってきたね。
▼一方その頃
永夢の一通りの謎が解消された一方で、今度はポッピーに新たな謎が。ポッピーの感染者は黎斗の母親だったのか。父親、檀正宗が永夢との面会以降、全く顔を出していなかったので「それでいいのか…!?」と思っていたけれど、良かった、まだ彼についてもうちょっと何かがありそうね。そして、幼き黎斗の幻影(?)に導かれたポッピーが見つけたものは…、
宝箱。その中に入っていたのは、ゲーマドライバーと色違いのプロトマイティアクションXガシャット。次回予告の映像からゲンムが消えてなかった事から何となく察してはいたけれど、ゲンムがまた登場するのね。彼の正体は一体…?…なんて言いつつ、自分はもう知っちゃってるんですよね。何でかって?
コイツを応募する為に『てれびくん』を買ったからですよ!!!!!!!!!!!
ではこれにて。
『仮面ライダーアマゾンズ season2』Episode4「QUO VADES?」感想+考察
▼QUO VADES?
前回(3話)の「PERSONA NON GRATA(ペルソナノングラータ)」に続き、今回もラテン語のサブタイトル。「QUO VADES(クォ・ヴァディス)」とは「何処へ行くのか?」と言う意味。そんなサブタイなだけあって、今回は色んな方々がお出掛けしていたね。お出掛けってレベルじゃないのもあったけど。
千翼とイユが向かった場所は…
遊園地。イユは千翼の真似をしながら二人でアトラクションで遊んだりクレープを食べたり、端から見れば普通のデートだが、結局、それは本当に只の真似っこでしかなくて、だから千翼がリバースしてしまった時もイユはそれと同じ行動をとろうとする。どうやってもイユは心の無い人形(『スペクター』並感)なのが悲しいね。それでもイユに手を握られたり「千翼、駆除しちゃいけない奴」とちょっと特別に見られたからと言ってドキドキしちゃう千翼は童貞猛々しいな…!まあ「気持ちは解らなくもない」なんて人もいるだろうけどね。
旧駆除班メンバー(と長瀬君)が向かった場所は…
よく解らない何処か。そう言えば白倉Pが『アマゾンズ』公式サイトでこんな事を書いていた。
「クォ・ヴァディス?」
そう訊ねたのは、イエスの弟子。
イエスの行く先は、弟子のだれにもわかりませんでした。わからなかったがゆえに、弟子たちはその後の生涯を捧げざるをえなくなりました。
ましてや『アマゾンズ』では、「どこへ行く?」と訊ねるほうも、訊ねられるほうも、行く先がわかりません。
その「わからなさ」は、生涯を左右する罪として、のちのち、かれらの身に降りかかってくるのかもしれません。
ウォーターサーバーの水源を探すべく、駆除班達は動き出す。そこは未知の領域である。ていうか、駆除班達の装備、強くなってたね。『season1』に登場したアマゾン達が総登場したが、それらに一歩も譲らない駆除班メンバー。もう5年前のアマゾンなんか敵じゃないのか…。時代は変わった…!そして、駆除班の前に立ちはだかるのはモグラアマゾンことマモル。結構格好良い服着てたけど何処で手に入れたのか…!(←そこかよ!?)強者感半端無かったけど、やっぱり人を食べて生きてきたのかしら?前回の感想記事にも書いたけど、モグラアマゾンがハンバーガーを持つシチュエーションは来るのだろうか…!何にせよ、駆除班の皆とは何かしらの何かしらでまた仲間同士に戻ってほしいね。
ではこれにて。
『仮面ライダーエグゼイド』28話「identityを超えて」感想+考察
『ゲンム』の感想記事を追記しました▼
今回の記事は追記した『ゲンム』の記事と関連してるかもしれないししてないかもしれません。それではどうぞ。
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▼クリア~!大成功だドン!
以前(26話感想にて)、「『ドレミファビート』含め、各ガシャットのゲームがどういうゲームなのかが解らない(ポッピーの役割が解らない)」と言った趣旨の文を書いたのだが、今回(28話)で永夢の口から明かされたね。ポッピーピポパポがどんな奴なのか。
永夢「ポッピーはプレイヤーを傷付けるような奴じゃない。プレイヤーと一緒に音楽を楽しんで、いつも笑顔でいる、優しいキャラクターだ!」
↑要するにコイツみたいな立ち位置か。太鼓を叩くプレイヤーと一緒に自分もダンスを踊り、クリアすれば一緒に喜んでくれる。ポッピーもそう言うキャラクターなんだなきっと。…と、最近『ゲンム』を観た自分はそう感じてしまいました(笑)だから「ポッピーを笑顔にすればゲームクリア」と言うのは確り理に敵っていて、飛彩が行おうとした「倒す(切除する)」と言う行為は寧ろ間違いだったのかもね。
飛彩はゲームに興味が無い(知らない)。どのくらい興味が無いかと言うと、CRに『ドレミファビート』の台が常時設備してあるにも関わらず、それが何のゲームなのかすら微塵も解っていなかったくらい。バガモンの一件に立ち会っていない飛彩は患者を治す=バグスターを倒す(ゲームクリア)と言うのが常識だった為、ポッピーを切除しようとするのだ。「ゲーム病患者の治療法がバグスターの切除」と言うのは「風邪が風邪薬を飲めば治る」と言う事ぐらい常識な事だと。
飛彩は良くも悪くも患者優先で永夢は良くも悪くも仲間優先な性格。…仲間優先ってのもちょっと違うかな。でも永夢は人に深入りする性格故、その人に何かが起こるとそれが感情や行動に出やすいのが"ドクター"としての難点。3話で勇樹を救う為に体を張るのも、貴利矢の死を根に持ち、外科研修に集中がいかないのも、今回、飛彩が「これは患者の為だ!」と言ったにも関わらず、「五月蝿い!」と言って払い除けるのも永夢がその人に深入りしてしまうから。今回の患者、鮫島拳も「俺は患者っすよ!?患者よりウイルスの方を庇うんすか!?」と苦言していたが、実際、それはド正論で、ドクターの私情等、患者は知ったこっちゃ無いんですよ。飛彩が「私情は捨てろ」と助言してるにも関わらず、永夢はそれが出来ない。19話感想にも書いたが、永夢はドクター向きの性格をしてないんだよな。まあ、それをサポートするのが飛彩な訳だが。
しかし、これは言い方を変えれば、「自身を犠牲にしてでも全ての人を救いたい」って言う事なんだよね。その為なら、何か他の策がある訳では無くても、今、目の前の誰かが死に陥ろうとしているなら、その人がそうならないように尽くすのが永夢と言うキャラクター。ポッピーの事も救いたかったけど、別に鮫島さんを疎かにしていた訳じゃあなかっただろうしね。要するに『鎧武』の葛葉紘汰みたいな感じですよ。代替案がある訳ではないが、スカラーシステムと言う大量殺人兵器が人々を襲うなら、それは兎に角ぶっ壊す、みたいな。彼ら二人の共通点は「誰も死なせたくない(擬制にしたくない)」という点である。
で、結果的に成功したと。この展開は地味に御都合主義を感じてしまうけど、まあ個人的にはアリです。紘汰と永夢のもう一つの共通点は「個人的な感情論が結果、良い方向に転がる事が多い」所かな。まあこの二人に限ったことじゃないけど…!
そういや、今回のブレイブはドラゴナイトハンターZガシャット(レベル5)を使わず、態々それよりも弱いドレミファビートガシャット(レベル3)を使っていたけれど、これは高橋氏か諸田さん辺りが意図的にやったものなのかな。今回は『ドレミファビート』のキャラクターであるポッピーを描いたお話だったから。
「『ドレミファビート』がしたいよ…」の台詞のシーンでポッピーと永夢の間に映るブレイブ ビートクエストゲーマーって画に天才さを感じてしまう…!
▼俺がお前でお前が俺で
成程、パラドが永夢に過剰に拘っていた理由は、パラドは自分と対等にやり合える存在を欲しがっていたが、自分(パラド/永夢)が天才ゲーマー故、その相手が永夢(パラド/自分)しかいなかったから、て感じなのか。…なんか色々ややこしいな…!ちょっと此処に関しては考え出すと頭がパンクするので次回を待つことにしますか。
ではこれにて。
『仮面ライダーアマゾンズ season2』Episode3「PERSONA NON GRATA」感想+考察
▼PERSONA NON GRATA=AMAZON (NEO)?
「PERSONA NON GRATA(ペルソナノングラータ)」とは外交用語であるのだが、その原義(ラテン語)は「厭わしき人物」。今回の『アマゾンズ』の最後のシーンを観るとアマゾンネオは脳味噌を吸われた女性に食欲を感じてしまった事からイユにターゲット(敵のアマゾン)と認識されたから攻撃されたのかな?イユはアマゾンの「人を食べたい」と言う欲望に反応して敵を沈黙させる存在なのか。戦闘シーンでもそうだったが(「邪魔。」「退け。」等)千翼がイユにどれだけ好意を抱こうと、イユは人としての感情を抹消された謂わば人形故、喜怒哀楽を感じず、剰え他人の事を好きになる、なんて事等有り得ない。イユが動く(生きる)理由はアマゾンを倒すと言う目的以外に何も無いのだ。果たして彼女に感情が戻る事はあるのだろうか。
でもって人間にとっての「PERSONA NON GRATA」はアマゾンだね。千翼はアマゾンだがアマゾンを嫌い、「俺は人間だ!」と譲らない。人間とは自身らに被害を及ぼす存在を忌み嫌う生物で、それ故に人食いであるアマゾンは嫌悪の対象になるのである。それでも、嘗てアマゾンの中にも人間と共存していた(出来ていた)イレギュラーな者もいた。
そう、水澤遥だ。彼も千翼と同様、「僕は人間だ!」と自身を人間と言い張り、アマゾンを狩っていた。そんな彼は5年前、トラロックから生き残ったアマゾン達と姿を消した。そして、再び姿を現した遥はイユ(とその家族)と何等かの関係がある模様。遥にも新設定が追加されたか。どんどん謎が増えていくね。まだ『season1』の謎も残っていると言うのに…!
にしても遥、『season2』に入って大衆から「大人っぽくなった」なんてよく言われてたけど、美月と対面した瞬間、いつもの遥に戻ったね…!でもまあ5年ぶりの再会だし、柔らかくなるのも無理は無いけどね。美月も遂に戦いに参戦か…!「戦う選択肢はアリだ」と言う台詞がこう繋がったか。新人なれどもエキスパートな腕を持つらしく。素質があったのかどちゃんこ訓練したのか。何にせよ、遥関連のキーパーソンになるのは間違いなさそうね。
ケンタ君、生きてたァーッ!!しかし、片足を失い、「バイクの免許を取る」と言う夢を絶たれてしまったのか。夢ってのは呪いと同じなんだよ(by宮本武蔵)長瀬くんは流れ的に駆除班(仮)に加入するのかな。ケンタもちょこちょこ出てきて欲しいね。仲間(アマゾン)に体の一部を食われた繋がりで三崎君と何かドラマがあったり…しない?
マモちゃん!生きとったんかワレェ!!彼もまた人間と共に生きていたアマゾンの一人。駆除班の皆には牙を向けるのかな。あまりそんな展開は期待しないけど…。『season2』でこれまで登場していたアマゾンは皆、新種のアマゾンだったから、今までの普通の人工のアマゾンが出てくるのは何気に初かしら?遥は他のアマゾンとは違うし。…ていうかちょっと話変わるけど、「S.H.figuarts モグラアマゾン」が最近発表されたけど、付属品にハンバーガーはちょっと違くない!?完全に人間体のイメージしか無いよ…。…つーか怪人体でハンバーガー持ってたシーンなんか無ェよ…!『season2』でハンバーガーを食べるって言う伏線?いやいやまさかね(←地味に期待している)
ではこれにて。
Vシネマ『ゴーストRE:BIRTH 仮面ライダースペクター』感想+考察
最初に言っておく!自分も書き終わってから気付いたが、この記事は深海マコト/仮面ライダースペクターについては殆ど触れていない!マコトの衝撃の真実とかタケルの結婚フラグとかアカリとイゴールのその後とか御成の探偵物語とか「配達屋、久し振りに見た」とかカノンちゃんの濡れ場とかそう言うのは全く書いていないのでその辺りは予め御了承下さい。じゃあ何について書いたのかって?見ていけば解ります。それではどうぞ。
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▼人間っていいな。
以下、『「仮面ライダー」超解析 平成ライダー新世紀!』より『ゴースト』チーフプロデューサー・高橋一浩の談より引用。
高橋 第1クールは眼魂を集めれば生き返られると信じてそれを集める。第2クール以降は、眼魔の成立ちを描いています。物語で一貫して描いているのは、命は大事、話せば思いは通じる、という普遍的な事です。(中略)「人間は寿命があり、体は脆弱」とアランが言っていますが、それでも「人間は素晴らしい」ということが伝われば幸いです。
「人間は素晴らしい」それがチーフP・高橋一浩の持論である。その思いは『ゴースト』本編にも色濃く出ており、それを思わせる台詞は数知れず。眼魔達は眼魂故、食事や睡眠、運動といった人間がしなくてはならない3原則の行動をせずとも生きていける。その為、彼等はそういった行いをしなければ生活出来ない脆弱な人間の身体を不便と評してきた。それでも、身体は脆弱でも、それでも「人間は素晴らしい」と言う事を伝えようとしてきたのが『ゴースト』と言う作品なのだ。それが顕著なのがアランが「人間の何たるか」を学び変わってゆく謂わば「アラン編」。幾つか例を挙げてみよう。
▼例えば、20話「炸裂!炎の友情!」
タケル「マコト兄ちゃんを苦しめて、それでもお前は友達か!」
アラン「心があるから苦しむ。無い方が幸せというものだ。」
タケル「ふざけるな!心があるから人間なんだ。心があるから通じ合う。だから人間って素晴らしいんだ!」
▼例えば、23話「入魂!デッカい眼魂!」
アラン「貴様に、そして兄上にも裏切られた私を笑いに来たのか?」
マコト「お前が俺達を助けてくれた。今度は、俺がお前を助ける番だ。そろそろ、これが必要なんじゃないか?」
アラン「誰が施しなど…!」
マコト「無理するな。生身の体だ。」
アラン「はあ…。こんな不便なものが、お前達が望むものなのか?」
マコト「今に、お前にもわかる。」
マコト「大丈夫か!?」
アラン「礼は言わないぞ。私は誰の助けもいらない。」
マコト「アラン!例えお前が何も信じられなくても、俺はお前を信じてる。」
カノン 「アラン様。」
アラン 「いたのか。」
カノン 「アラン様が、此処に来るんじゃないかと思って。」
フミ 「なんだ、やっぱりデートだったのかい。」
アラン 「デートとは何だ?」
カノン 「フミ婆、そんなんじゃなくて…。」
フミ 「ハハハ、照れるな照れるな。一緒にいて楽しいんだろ?ん?ホッとするんだろ?」
アラン 「私を愚弄する気か?」
フミ 「ホホホ…相変わらず面白いねえ。自分の心に正直になりなよ。」
アラン 「心…。」
(アドニス)「迷った時は、自分の心に従え。」
アラン 「心など不要のはず…。」
フミ 「ほら、たこ焼き食べなよ。」
アラン 「たこ焼き…!」
▼例えば、27話「決死!覚悟の潜入!」
アラン 「父上、教えてください。この世界は人が死なず争いもなく完璧に調和が取れた世界のはず。しかし先ほど、民が消えるのをこの目で見ました。人が死に、そして争いが起きています。私は今まで何の為に…。」
タケル 「アラン…。」
アラン 「父上は私に言いました。」
(アドニス)「アラン。迷った時は、自分の心に従え。」
アラン 「あれは一体どういう意味なんです?父上。」
タケル 「とにかく此処から逃げよう。」
アラン 「タケル、さっきはお前を一人にして…」
タケル 「良かったね。お父さんに会えて。」
アドニス「アラン。良き友を得たな。」
アラン 「え?」
▼例えば、29話「再臨!脱出王の試練!」
アラン「信じるものを全て失った。私はこれまで一体何の為に…。」
フミ 「心が迷子になってるみたいだね。青春だね。それが、人間ってもんだよ。私も若い頃は、散々悩んだもんだ。だから今は、自分の心が何をしたいかわかるのさ。私の心は、こいつを焼いて、あんたに食べさせたいって、叫んでるのさ。」
アラン「私の心は、何をしたがっているんだ?」
(中略)
アラン「私の心は死んでしまったのだろうか?」
フミ 「そんなに難しく考えるもんじゃないよ。若い頃はどうしても、心と上手く付き合えないもんさ。」
アラン「しかし…。」
フミ 「昔、絵描きを、目指してたのさ。でも諦めた。苦しくて苦しくて、心が迷い、死んじまったみたいになった。だけど今は、たこ焼きで皆を笑顔にできる。幸せさね。心は死なないんだよ。」
アラン「フミ婆…。」
フミ 「そうだ。久しぶりに絵を、描いてみたくなったよ。宝物を沢山ね。どうだい?」
アラン「空が…青い。宝物か…。そうだな。」
フミ 「焦らなくていいんだよ。いつか、心の声は聞こえるさ。そしたら、心のままにやってごらんよ。」
▼そして、30話「永遠!心の叫び!」
皆大好き、30話。アランはフミ婆の死を知り、哀しむ。人が死ぬと言う事は哀しい事である。"心"を手に入れたアランはその事実に酷く苦しめられるのだ。
女性「ねえ、フミ婆本当に亡くなっちゃったの?」
男性「フミ婆亡くなったんだって!?突然過ぎるよ…!」
アラン「…!」
(中略)
アラン「なんなんだ?この感情は…。心があるからこんな気持ちになるのなら、心なんていらない…。」
しかし、フミ婆の告別式に訪れている人々は様々な感情(表情)を見せていた。泣いている者もいれば、なんと笑っている者もいたのだ。
アラン(泣いている人間もいる。笑っている人間もいる。なんだ?これは。)
タケル「アランもお別れを言ってあげて。きっとフミ婆も喜ぶから。」
アラン「人間は死んだら終わりだ。」
タケル「そんなことない。フミ婆は…フミ婆の思いは、みんなの心の中で生き続けるんだ。きっとアランの心にも…。」
アランは覚えている。フミ婆(やアドニス)から教わった事を。それは、今はこの世にいなくとも、アランの"心"の中では確りとフミ婆が生き続けている証拠だ。そして、フミ婆と関わってきた多くの人々の"心"の中にも。だからタケルやカノンは恰もフミ婆が生きているかのように、「喜ぶ」や「悲しむ」と言った言葉を使うのだ。『スペクター』でもシンスペスターVSエヴォリュードのシーンでマコト/シンスペスターが「俺には、三人の父さんが"いる"!」と言うのだけれど、彼が「俺には、三人の父さんが"いた"!」と過去形にしなかったのは、マコトの"心"の中にその三人の父さんが今も生き続けている、即ち、マコトが"心"の無い人形ではなく"心"がある"人間"である何よりの証拠なのだ。魂は永遠に不滅だ!
カノン「明日、敵の潜伏先に乗り込みます。アラン様も手伝ってもらえますか。」
アラン「私は自分がどうしたいのかもわからない。」
マコト「答えはお前の心の中にあるはずだ。」
タケル「自分の心にとことん向き合えば、答えは出る筈だよ。」
(フミ婆から貰った服を渡すカノン)
カノン「アラン様がそんなんじゃ、フミ婆が悲しみますよ。」
こうして、人間とは、"心"とは何なのかを学んだその先に、アランは一つの結論を提示する。それは…
アラン「あぁ、そうだな。人間も悪くない。」
"心"等不要、人々が死なず、争いの無い完璧な世界こそ真の平和、そう思っていたアランが様々な"人間"と触れ合い、「人間の何たるか」そして「人間の素晴らしさ」を学んでいく。生身の身体を手に入れたアランは同時に"心"と言う存在も持ち合わせる事となる。心があるから人は喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。様々な感情が交差しながらも、それがあるから人間なのだ。"心"とは人間の中心角にあるもの、心髄なのだ。
因みに、「葬式(哀しむべき場)で笑っている人間がいてハテナが浮かんだ」と言うエピソードはチーフP・高橋一浩が実際に経験した事なのだそう。以下も『「仮面ライダー 超解析」平成ライダー新世紀!』より。
――個人的に特に印象に残っている回があればぜひ、その理由とともにお答えください。
高橋 このシリーズでどうしても描きたかったのが、ヒーローではなく普通の人の普通の「死」です。平成ライダー初期と違い、昨今の仮面ライダーでは人の死が描きづらくなっています。もちろん子どもへの影響を考えてのことですが、本作では怪人に命を奪われるわけではなく、何かの犠牲になるのでもなく、「人は死ぬ」という当たり前のことを描きたいと思っていました。それが29・ 30話です。これまで生まれ育った環境/世界、そして父の思想こそが理想だと信じて疑わなかった不死の存在であるアランが、アドニス、そしてフミバアの死を経て心の痛さに苦しみます。人の死は誰もが経験することで悲しい出来事です。しかし、フミバアの生き様は思い出となって心に残り、生きて記憶がなくなるわけではありません。死は命の終わりかもしれません。ただし無になるわけではない。それをアランに知ってもらいたくてフミの告別式を描きました。アランが劇中のモノローグで言っているように、私も子どもの頃は葬式が好きではありませんでした。悲しくて泣いているのに笑っている人がいる。なんて不謹慎なんだろうと。でも、そうじゃないんですよね。多くの人が集まり、故人の思い出を語る。それをなんて素敵なことなんだろうと思ったのは大人になってからです。フミバアのために性別や年齢も様々な多くの人が集まり、故人を語る。涙する人もいれば笑顔の人もいる。それだけ多くの人に影響を与え、思い出になって残る。亡くなってもなお、みんなの心にフミバアがいるということをアランに知ってほしかった。アランが父とフミ、そして生きている人の想いを胸に立ち上がる、というのは最初から描きたかったことです。
そして『スペクター』のラストシーンでは「人間の素晴らしさ」を知ったアランが眼魔世界の人間達へ向けて演説をするのだが、なんとその演説の言葉は(『スペクター』を執筆した福田卓郎氏の協力があったとは言え)アランを演じる磯村勇斗自身が考えたと言うのだから驚きだ。彼もまた、アランを通して、高橋Pが伝えたかった「人間の素晴らしさ」を感じ取れた(感化された)人の一人なのだろう。しかも確りと肌で。
アラン「私は青い空を愛している。漸く、この世界でも青い空を見ることが出来た。どんなに今日と言う日を待ち望んだ事か。今でも、初めて青い空を見たときの衝撃は忘れない。それほど美しかった。皆には苦労をかけた。多くの命も失った。だが今、青空の元に立てた事は、此処にいる皆や、地球で出会った仲間達のお蔭だ。私は、皆と共に青い空を見れて幸せと感じている。そう思うことが出来たのも、色のある美しい世界に触れ、人間の素晴らしさを教えて貰ったからだ。其処で生きる人間は、命と心を大事にし、人が笑顔に溢れていた。初めは私には理解出来なかった。だが、「死」と言うものに触れ、命の儚さを知った。人間は、命が有る限り今を一生懸命生き、失った人の思いは、私達の心の中で生き続ける。私達は心があるから苦しみ、心があるから笑顔になれる。それが人間ではないか!そして、今の私があるのは、何時も私の傍で支えてくれた、一人の友が始まりだった。私は其処で初めて、友の本当の意味を知りました。私達は助け合い、お互いを信じてきた。どんなに心の支えになった事か。拳でぶつかっても良い。迷ったって良い。どんな事があろうと友である事は永遠に変わらない。だから、皆も私の友として、一緒に支えあってはくれないだろうか。今日から私は大帝の息子ではなく、一人の人間として皆と共に生きていく。私達は繋がっている。この青空こそ、私達にとって新しい世界の始まりであり、希望である。これから皆で美しい宝物を築いていこうではないか。我が友よ!」
人間とは不便な生き物かも知れない。何時かは死に、今も争いは絶えない。それは悲しく、それにより、人は時に苦しみを味わう事もある。それでも、我々が笑顔でいられるのは、人間には"心"があるからである。互いが互いを支え合い、共に世界を築いていく。人間の無限の可能性は、"心"があるからこそ真に成り立つ物なのだ。アランは『ゴースト』本編を通してそれを学び、『スペクター』の演説、そして、眼魔世界に広がる青い空に繋がったと思うと涙が出るね。『スペクター』、アランの成長の末を魅せてくれたと言う事で、自分はこの作品を高く評価したいと思います。
ではこれにて。