Vシネマ『ゴーストRE:BIRTH 仮面ライダースペクター』感想+考察
最初に言っておく!自分も書き終わってから気付いたが、この記事は深海マコト/仮面ライダースペクターについては殆ど触れていない!マコトの衝撃の真実とかタケルの結婚フラグとかアカリとイゴールのその後とか御成の探偵物語とか「配達屋、久し振りに見た」とかカノンちゃんの濡れ場とかそう言うのは全く書いていないのでその辺りは予め御了承下さい。じゃあ何について書いたのかって?見ていけば解ります。それではどうぞ。
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▼人間っていいな。
以下、『「仮面ライダー」超解析 平成ライダー新世紀!』より『ゴースト』チーフプロデューサー・高橋一浩の談より引用。
高橋 第1クールは眼魂を集めれば生き返られると信じてそれを集める。第2クール以降は、眼魔の成立ちを描いています。物語で一貫して描いているのは、命は大事、話せば思いは通じる、という普遍的な事です。(中略)「人間は寿命があり、体は脆弱」とアランが言っていますが、それでも「人間は素晴らしい」ということが伝われば幸いです。
「人間は素晴らしい」それがチーフP・高橋一浩の持論である。その思いは『ゴースト』本編にも色濃く出ており、それを思わせる台詞は数知れず。眼魔達は眼魂故、食事や睡眠、運動といった人間がしなくてはならない3原則の行動をせずとも生きていける。その為、彼等はそういった行いをしなければ生活出来ない脆弱な人間の身体を不便と評してきた。それでも、身体は脆弱でも、それでも「人間は素晴らしい」と言う事を伝えようとしてきたのが『ゴースト』と言う作品なのだ。それが顕著なのがアランが「人間の何たるか」を学び変わってゆく謂わば「アラン編」。幾つか例を挙げてみよう。
▼例えば、20話「炸裂!炎の友情!」
タケル「マコト兄ちゃんを苦しめて、それでもお前は友達か!」
アラン「心があるから苦しむ。無い方が幸せというものだ。」
タケル「ふざけるな!心があるから人間なんだ。心があるから通じ合う。だから人間って素晴らしいんだ!」
▼例えば、23話「入魂!デッカい眼魂!」
アラン「貴様に、そして兄上にも裏切られた私を笑いに来たのか?」
マコト「お前が俺達を助けてくれた。今度は、俺がお前を助ける番だ。そろそろ、これが必要なんじゃないか?」
アラン「誰が施しなど…!」
マコト「無理するな。生身の体だ。」
アラン「はあ…。こんな不便なものが、お前達が望むものなのか?」
マコト「今に、お前にもわかる。」
マコト「大丈夫か!?」
アラン「礼は言わないぞ。私は誰の助けもいらない。」
マコト「アラン!例えお前が何も信じられなくても、俺はお前を信じてる。」
カノン 「アラン様。」
アラン 「いたのか。」
カノン 「アラン様が、此処に来るんじゃないかと思って。」
フミ 「なんだ、やっぱりデートだったのかい。」
アラン 「デートとは何だ?」
カノン 「フミ婆、そんなんじゃなくて…。」
フミ 「ハハハ、照れるな照れるな。一緒にいて楽しいんだろ?ん?ホッとするんだろ?」
アラン 「私を愚弄する気か?」
フミ 「ホホホ…相変わらず面白いねえ。自分の心に正直になりなよ。」
アラン 「心…。」
(アドニス)「迷った時は、自分の心に従え。」
アラン 「心など不要のはず…。」
フミ 「ほら、たこ焼き食べなよ。」
アラン 「たこ焼き…!」
▼例えば、27話「決死!覚悟の潜入!」
アラン 「父上、教えてください。この世界は人が死なず争いもなく完璧に調和が取れた世界のはず。しかし先ほど、民が消えるのをこの目で見ました。人が死に、そして争いが起きています。私は今まで何の為に…。」
タケル 「アラン…。」
アラン 「父上は私に言いました。」
(アドニス)「アラン。迷った時は、自分の心に従え。」
アラン 「あれは一体どういう意味なんです?父上。」
タケル 「とにかく此処から逃げよう。」
アラン 「タケル、さっきはお前を一人にして…」
タケル 「良かったね。お父さんに会えて。」
アドニス「アラン。良き友を得たな。」
アラン 「え?」
▼例えば、29話「再臨!脱出王の試練!」
アラン「信じるものを全て失った。私はこれまで一体何の為に…。」
フミ 「心が迷子になってるみたいだね。青春だね。それが、人間ってもんだよ。私も若い頃は、散々悩んだもんだ。だから今は、自分の心が何をしたいかわかるのさ。私の心は、こいつを焼いて、あんたに食べさせたいって、叫んでるのさ。」
アラン「私の心は、何をしたがっているんだ?」
(中略)
アラン「私の心は死んでしまったのだろうか?」
フミ 「そんなに難しく考えるもんじゃないよ。若い頃はどうしても、心と上手く付き合えないもんさ。」
アラン「しかし…。」
フミ 「昔、絵描きを、目指してたのさ。でも諦めた。苦しくて苦しくて、心が迷い、死んじまったみたいになった。だけど今は、たこ焼きで皆を笑顔にできる。幸せさね。心は死なないんだよ。」
アラン「フミ婆…。」
フミ 「そうだ。久しぶりに絵を、描いてみたくなったよ。宝物を沢山ね。どうだい?」
アラン「空が…青い。宝物か…。そうだな。」
フミ 「焦らなくていいんだよ。いつか、心の声は聞こえるさ。そしたら、心のままにやってごらんよ。」
▼そして、30話「永遠!心の叫び!」
皆大好き、30話。アランはフミ婆の死を知り、哀しむ。人が死ぬと言う事は哀しい事である。"心"を手に入れたアランはその事実に酷く苦しめられるのだ。
女性「ねえ、フミ婆本当に亡くなっちゃったの?」
男性「フミ婆亡くなったんだって!?突然過ぎるよ…!」
アラン「…!」
(中略)
アラン「なんなんだ?この感情は…。心があるからこんな気持ちになるのなら、心なんていらない…。」
しかし、フミ婆の告別式に訪れている人々は様々な感情(表情)を見せていた。泣いている者もいれば、なんと笑っている者もいたのだ。
アラン(泣いている人間もいる。笑っている人間もいる。なんだ?これは。)
タケル「アランもお別れを言ってあげて。きっとフミ婆も喜ぶから。」
アラン「人間は死んだら終わりだ。」
タケル「そんなことない。フミ婆は…フミ婆の思いは、みんなの心の中で生き続けるんだ。きっとアランの心にも…。」
アランは覚えている。フミ婆(やアドニス)から教わった事を。それは、今はこの世にいなくとも、アランの"心"の中では確りとフミ婆が生き続けている証拠だ。そして、フミ婆と関わってきた多くの人々の"心"の中にも。だからタケルやカノンは恰もフミ婆が生きているかのように、「喜ぶ」や「悲しむ」と言った言葉を使うのだ。『スペクター』でもシンスペスターVSエヴォリュードのシーンでマコト/シンスペスターが「俺には、三人の父さんが"いる"!」と言うのだけれど、彼が「俺には、三人の父さんが"いた"!」と過去形にしなかったのは、マコトの"心"の中にその三人の父さんが今も生き続けている、即ち、マコトが"心"の無い人形ではなく"心"がある"人間"である何よりの証拠なのだ。魂は永遠に不滅だ!
カノン「明日、敵の潜伏先に乗り込みます。アラン様も手伝ってもらえますか。」
アラン「私は自分がどうしたいのかもわからない。」
マコト「答えはお前の心の中にあるはずだ。」
タケル「自分の心にとことん向き合えば、答えは出る筈だよ。」
(フミ婆から貰った服を渡すカノン)
カノン「アラン様がそんなんじゃ、フミ婆が悲しみますよ。」
こうして、人間とは、"心"とは何なのかを学んだその先に、アランは一つの結論を提示する。それは…
アラン「あぁ、そうだな。人間も悪くない。」
"心"等不要、人々が死なず、争いの無い完璧な世界こそ真の平和、そう思っていたアランが様々な"人間"と触れ合い、「人間の何たるか」そして「人間の素晴らしさ」を学んでいく。生身の身体を手に入れたアランは同時に"心"と言う存在も持ち合わせる事となる。心があるから人は喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。様々な感情が交差しながらも、それがあるから人間なのだ。"心"とは人間の中心角にあるもの、心髄なのだ。
因みに、「葬式(哀しむべき場)で笑っている人間がいてハテナが浮かんだ」と言うエピソードはチーフP・高橋一浩が実際に経験した事なのだそう。以下も『「仮面ライダー 超解析」平成ライダー新世紀!』より。
――個人的に特に印象に残っている回があればぜひ、その理由とともにお答えください。
高橋 このシリーズでどうしても描きたかったのが、ヒーローではなく普通の人の普通の「死」です。平成ライダー初期と違い、昨今の仮面ライダーでは人の死が描きづらくなっています。もちろん子どもへの影響を考えてのことですが、本作では怪人に命を奪われるわけではなく、何かの犠牲になるのでもなく、「人は死ぬ」という当たり前のことを描きたいと思っていました。それが29・ 30話です。これまで生まれ育った環境/世界、そして父の思想こそが理想だと信じて疑わなかった不死の存在であるアランが、アドニス、そしてフミバアの死を経て心の痛さに苦しみます。人の死は誰もが経験することで悲しい出来事です。しかし、フミバアの生き様は思い出となって心に残り、生きて記憶がなくなるわけではありません。死は命の終わりかもしれません。ただし無になるわけではない。それをアランに知ってもらいたくてフミの告別式を描きました。アランが劇中のモノローグで言っているように、私も子どもの頃は葬式が好きではありませんでした。悲しくて泣いているのに笑っている人がいる。なんて不謹慎なんだろうと。でも、そうじゃないんですよね。多くの人が集まり、故人の思い出を語る。それをなんて素敵なことなんだろうと思ったのは大人になってからです。フミバアのために性別や年齢も様々な多くの人が集まり、故人を語る。涙する人もいれば笑顔の人もいる。それだけ多くの人に影響を与え、思い出になって残る。亡くなってもなお、みんなの心にフミバアがいるということをアランに知ってほしかった。アランが父とフミ、そして生きている人の想いを胸に立ち上がる、というのは最初から描きたかったことです。
そして『スペクター』のラストシーンでは「人間の素晴らしさ」を知ったアランが眼魔世界の人間達へ向けて演説をするのだが、なんとその演説の言葉は(『スペクター』を執筆した福田卓郎氏の協力があったとは言え)アランを演じる磯村勇斗自身が考えたと言うのだから驚きだ。彼もまた、アランを通して、高橋Pが伝えたかった「人間の素晴らしさ」を感じ取れた(感化された)人の一人なのだろう。しかも確りと肌で。
アラン「私は青い空を愛している。漸く、この世界でも青い空を見ることが出来た。どんなに今日と言う日を待ち望んだ事か。今でも、初めて青い空を見たときの衝撃は忘れない。それほど美しかった。皆には苦労をかけた。多くの命も失った。だが今、青空の元に立てた事は、此処にいる皆や、地球で出会った仲間達のお蔭だ。私は、皆と共に青い空を見れて幸せと感じている。そう思うことが出来たのも、色のある美しい世界に触れ、人間の素晴らしさを教えて貰ったからだ。其処で生きる人間は、命と心を大事にし、人が笑顔に溢れていた。初めは私には理解出来なかった。だが、「死」と言うものに触れ、命の儚さを知った。人間は、命が有る限り今を一生懸命生き、失った人の思いは、私達の心の中で生き続ける。私達は心があるから苦しみ、心があるから笑顔になれる。それが人間ではないか!そして、今の私があるのは、何時も私の傍で支えてくれた、一人の友が始まりだった。私は其処で初めて、友の本当の意味を知りました。私達は助け合い、お互いを信じてきた。どんなに心の支えになった事か。拳でぶつかっても良い。迷ったって良い。どんな事があろうと友である事は永遠に変わらない。だから、皆も私の友として、一緒に支えあってはくれないだろうか。今日から私は大帝の息子ではなく、一人の人間として皆と共に生きていく。私達は繋がっている。この青空こそ、私達にとって新しい世界の始まりであり、希望である。これから皆で美しい宝物を築いていこうではないか。我が友よ!」
人間とは不便な生き物かも知れない。何時かは死に、今も争いは絶えない。それは悲しく、それにより、人は時に苦しみを味わう事もある。それでも、我々が笑顔でいられるのは、人間には"心"があるからである。互いが互いを支え合い、共に世界を築いていく。人間の無限の可能性は、"心"があるからこそ真に成り立つ物なのだ。アランは『ゴースト』本編を通してそれを学び、『スペクター』の演説、そして、眼魔世界に広がる青い空に繋がったと思うと涙が出るね。『スペクター』、アランの成長の末を魅せてくれたと言う事で、自分はこの作品を高く評価したいと思います。
ではこれにて。